版画展のきれいなお姉さん

思い出と言うより昔話。

何か買い物があって町の中を歩いていたら、道ばたで広告か何かを受け取ってしまった。ポケットティッシュなら使い道もあったのに広告だけらしい。そのまま通り過ぎようとしたら、それを配っていた女性から「それ、今、やっているんです。無料です。観ていきませんか?」と言われる。チラシと思っていたのをよく見てみると、絵画展の無料入場券だった。それも何だか見覚えがあると思ったら、PCのデスクトップに使っている名盤コレクション ラッセン作品集と同じ作者らしい。
買い物も済んでいたし、その日は他に用事もなかったので、ちょっと観ていくことにした。
そのチラシ配りの女性、お姉さんの後に付いていくと、薄暗い店内にたくさんの絵が展示されている。展示されている絵は、ラッセンとシムシメールという人の作品だけらしい。自分は博物館や展覧会はじっくり見る方なので、修学旅行やなんかでは、いつも最後まで観ている方だった。今回も同じように観ていたら、さっきのお姉さんが親切に色々教えてくれる。
曰く、これらの絵は版画であること。(自分は版画とは白黒ものしか無いと思っていた。)版画の角には番号(○○/100とか)が書かれていて版画のシリアル番号が分かること。版画の原盤は予定枚数を刷り終わったら廃棄してしまうことなどを教えてくれた。
ただ、親切に色々教えてくれるのは非常にありがたいのだが、どうも急かされるのは迷惑だ。こっちはじっくり絵じゃなくて版画を観たいのだが。とりあえずお姉さんは無視して一通り(シムシメールは観なかった)観終えると、待ってましたとばかりにお姉さんが、「一番気に入った版画はどれですか?」と聞いてきた。どれと言われてもラッセンは似たような絵が多くどの絵も嫌いじゃないので、選べないと答えると、「それでも一つ選ぶとしたら?」と食い下がってくる。色々親切に教えてくれたこともあり、仕方ないので近くにあったイルカが2〜3頭泳いでいる大きめの版画を指さした。
するとお姉さんは嬉々として、版画を壁から外して、観やすいように壁に立てかけて、周りから照明を持ってきてライトアップまでしてくれる。そしてどこぞから椅子を持ってきて座るように言う。次にこれまでないほど熱心にこの版画を褒め称え始めた。それも延々と。別に自分はそれほどこの版画がすばらしいと思っているわけではないので、ちょっと、引いてしまう。ヒマだったので、周りを見てみると、結構、お客さんが入ってきている。どのお客さんにも展示会のお姉さんが付いていて色々説明している。自分の気のせいかも知れないが、お客さんには共通の特徴がある気がした。どの人もおとなしい感じの、一言で言うと人畜無害っぽい感じの人のように見えた。自分も端から見るとそう見えるのだろう。ほとんど男性客だが、一人だけ女性客もいた。やはりおとなしそうな人でかっこいいお兄さんが付いていた。さらに女性の方は机で書類に一生懸命に何かを書いていた。近くの壁には大きな版画が立てかけてある。
さて、こっちのお姉さんの話が一段落しそうだったので話を聞いていると、今度は絵画と人生についての持論を展開し始めた。何でも、自分が気に入った絵画との出会いは非常に貴重なものであり、一生に一度あるかないかのことで、そのチャンスを逃すと二度と取り戻せなくなると言う内容だった。
確かに一理ある内容だと思う。何か欲しいものがあっても値段を見てためらったばかりに、その後、買いに行ったときにはすでに無かったということが、自分の経験にも何度かあったと思う。ただ、今はネットの時代だ。何か欲しいものがあったらネットで調べれば大概のものは見つかるし、オークションもある。普通は一つ見つかってもそれに決めずに複数のサイトを比べて一番良いと思ったものを選ぶ。そういう風にいろいろ比較検討して購入したものでさえ、買ってから後悔することが少なくないというのに、このお姉さんの言うように欲しいと思ったり気に入ったものを「二度と買えないかも知れない」などと血迷って買っていたらお金がいくらあっても足りなくなってしまう。そもそも、今住んでいる6畳しかない賃貸アパートでこんな大きな絵じゃなく版画を買ってどうしろ言うのか。
こういった自分の考えをお姉さんに述べてみた。お姉さんは「気に入ったものはすぐに買う」という持論を曲げることはなく議論は平行線になってしまった。版画の置き場所については、お姉さんから「床において壁に立てかけても良い」という提案があり、それはそれでアリかと思った。テレビのトレンディードラマでそういうシーンを見たことがあった気がする。
それから数時間、平行線の議論を続けたが、唐突にお姉さんが、「今日は運良く店長がいるので値引きできるかも知れない」と言い出した。これはどういうことだろう。お姉さんと自分は”気に入ったモノはすぐに買うべきか、それとも比較検討後に買うべきか”という人生哲学について延々と議論を重ねてきたというのに、なぜ、価格交渉というか値引き交渉に変わってしまうのだろうか。これでは今までの議論の意味が無くなってしまう。まあ、確かに版画の脇に申し訳程度に貼られている値札は100万円と50万円の2種類しかないのは非常に違和感があったことは確かだが、だからといって、そのことを一言も言ったことはなかった。
しばらくするとお姉さんがスキップしながらやってきて、今回だけ特別に大幅に値下げができると言う。何でも50万円が30万円になるという。自分としては、値引き価格の話よりも、「気に入ったモノはすぐに買うべきか」の話の方に関心があったので、話を戻そうとすると、突然、お姉さんから笑顔が消えて、怒り出した。曰く、こっちだって商売でやっているのにいつまでも無駄話しているヒマはない、だそうだ。
それから、しばらく、お姉さんが置かれている状況やこなさなければならないノルマの話をしていたように思うが良く憶えていない。その後、お姉さんにいろいろ教えてくれたことに対してお礼を言って、店を出たが、結構な数の人が書類にサインしているのを見かけた。
案外、自分が考えている以上に、気に入ったモノはすぐに買う主義の人が多いのかも知れない。