アゲハ蝶

行きつけの近所のそば屋からの帰り道、アゲハ蝶が飛んでいるのを見かけた。あいにくの曇り空だったが大きな羽を羽ばたかせながらひらひらと黄色いキアゲハが飛んでいた。アゲハ蝶を見ると今でも思い出す子供の頃の思い出がある。
実にどうでも良くて些細なことなのに忘れることが出来ず、今でも鮮明に憶えている。



あらゆるものが原色でギラギラと輝いていた頃の思い出。
今より地面が近く、世界が無限に広がっていると信じていた頃の思い出。
青空をアゲハ蝶が飛んでいた。
アゲハ蝶は特別だ。
滅多に見つからないし大きいしきれいだし、同じ蝶でもどこにでもいるモンシロ蝶とは全然違う。
でも、いつも高いところを飛んでいて、虫網を使っても届かない。
たまに近くまで降りてきてもひらひらとかわされてしまって、どうしても捕まえることができない。

ある日、ぼくは良いことを思いついた。
幼虫のうちに捕まえれば良いのだ。
家の側の公園に変わった模様のイモムシがたくさんいるのを知っていた。
それがやがてサナギになって蝶になることも知っていた。
ぼくは虫カゴを持って家を出た。
家は道営住宅で肌色の細長い形をしていて、同じ形の建物が並んでいる。
家の横には番号が書いてある。
道路は砂利が敷いてあって車が通るたびにホコリが舞い上がった。
ぼくの家は建物の角にあり、玄関を出てぐるっと回れば公園が見える。
同じ形の建物の脇をひとつ超えれば、すぐに公園だ。
公園は古いタイヤで周りを囲われている。
太陽で熱くなっているタイヤを乗り越えて公園の中に入る。
砂場や大きいブランコと小さいブランコ、すべり台があるけど、今日は目に入らない。
すべり台の奥のタイヤの柵のあたりに丸い形をした葉っぱの直物が生えていてそこにアゲハ蝶の幼虫がいるのだ。
実際、そこには何匹も幼虫がいた。
緑色をしていて、形は毛虫みたいだったけど毛は生えて無くて気持ち悪くもなかった。
一生懸命、葉っぱを食べていた。
アゲハ蝶の幼虫は攻撃されると角を出す。
指でつんつんとつついてみると、頭からオレンジ色の角がゆっくりと生えてきた。
じっと見てると、また、ゆっくりともどってしまった。
くさい臭いも出ているはずだけど、そんなに気にならなかった。
ぼくは、どんどん幼虫を捕まえて虫かごに入れていった。
もちろん、お腹が空かないように生えていた草も一緒に入れた。
虫かごの中で葉っぱを食べている幼虫が全部アゲハ蝶になるかと思うととても嬉しかった。
全部捕まえてしまうと、もう一カ所の幼虫のいる場所へと向かった。


それから何ヶ月かが経ったある日。
お母さんが呼んでいる。
何か見せたい物があるようだ。
何だろう。
お母さんは何か黒いビニール袋に入ったものを持っていた。
それを受け取って中身を見た瞬間、世界が凍り付いた。


それは、黄色いクワガタの形をしたぼくの虫かごだった。
弟のは緑色のカブトムシの形をしていた。
そしてその中には、たくさんの黄色いアゲハ蝶がいた。
虫かごには空っぽのサナギが何個もくっついていた。
後は、茶色く枯れたぼろぼろの草が入っていた。
たくさんいるアゲハ蝶はみんな動かなかった。
みんな死んでいた。
羽は端の方が少しボロボロになっていたけど、形はほとんどもとのままだった。
ぼくは一瞬で何が起きたのかを理解した。
見てごらんきれいでしょ、という声が聞こえた。
ぼくはそれどころではなかった。
なぜか胸が苦しかった。
幼虫はサナギになって蝶になったのだ。
真っ暗な黒いビニールの中で。
この狭い虫かごの中で。
誰にも知られることなく。
そして、花もない、飛ぶこともできない、真っ暗な中で、お腹を空かせて死んでしまったのだ。
遠くで、誰かが泣いている声が聞こえた。
胸の苦しさは増していた。
どうして蝶は死ななければならなかったのだろう。
空を飛ぶために幼虫からサナギになって、そして、ようやく蝶になったというのに一度も空を飛ぶことも花を見ることも無く、真っ暗な中で死ななければならなかったのだろう。
あまりにもかわいそうじゃないか。
どうして、こんなことになってしまったんだろう。
あまりにも酷すぎる。


全部、ぼくがやったことだった。
ぼくが幼虫を捕まえなければこの蝶達は、他の蝶達と同じように空を飛んでいたんだ。
こんなはずじゃなかったのに。
蝶達にごめんなさいと謝りたかったけど、もう、蝶は何も聞くことができない。
虫かごから逃がしてあげても、飛ぶこともできない。
死んでいるのだから。
どうして死んでしまったのだろう。
それは、ぼくが、捕まえたから。
ぼくは何度も何度も同じことを繰り返し考えていた。
気がつくとぼくは泣いていた。
ワンワンとものすごい勢いで泣いていた。
ただ泣くことしかできなかった。
心の奥から何かがどんどん溢れてきて、それに身を任せることしかできなかった。
どうして良いか分からなかった。
ふと顔を上げると、溢れる涙の向こうでお母さんが困ったような笑顔で何かを言っていた。しかし、その時のぼくには何も聞こえなかった。
いつまでも、いつまでもぼくは泣き続けていた。



平坦とはほど遠い人生を送ってきた母は、今日で還暦を迎える。
細やかで良いので何か贈り物を贈りたいと思う。