ネット社会を振り返った時に、見えてくる違いについて。

最近アップされたこの2つ記事は、着眼点こそ違いますがどちらもインターネットの黎明期から現代までを振り返ってみているという点では同じです。しかし、それをどう受け止め、どう感じたかという点では2つの記事は全く異なっているように見えます。

「今の現象は当然」と言い切ることに対する違和感

1つ目の記事は書いてあることはどれも間違っていないと思いますが、文書の所々で違和感や嫌悪感すら感じます。例えば、YouTubemixiもホームページも皆CGMと一括りにし同列に扱っていること。そして、それを「インターネットの原理から言って当然の流れ」と言い切っていること。ホームページは10年以上前から存在しているがCGMという概念が現れるのはYouTubeMixi、そしてSBMなどのサービスが広まってからです。CGMという概念があったから、これらのサービスが始まったわけではありません。どうもこの記事を読んでいると言葉遊びをしているようにすら見えます。

インターネットが日本に初めてやってきたとき、その概念だけで夢を語った人が多かったと思います。私はこの時、「誰でも簡単に世界に向けて情報(CGM)発信をすることができる世界」(もちろん発信だけでなくインタラクティブではありますが)が来ると漠然と考えました。これは私のインターネットに対する考え方の原点で「Web0.0の世界観」と言っても良いものです。

最近Web2.0のキーワードが登場しましたが、私の目から見た感覚は結局「Web0.0の世界観」に向って進化しているに過程にすぎないわけで、最終形のイメージはあくまでも「Web0.0の世界観」なのです。

さらにはインターネット当初の自分のイメージである「Web0.0の世界観」が理想の形で、現実はその理想に向かう発展途上の段階と言い切っています。ぜひ、その「Web0.0の世界観」を詳しく教えて欲しいと思います。

私が初めてインターネットに出会ったのは今は休刊になってしまったインターネットマガジンが創刊された年でした。たぶんその頃がインターネットが初めて日本やって来た時の状況だと思います。大学の研究室に配属になりそこに置いてあったUnix(確かHP-UX)を通してでした。当時のブラウザはMozaicが主流で、ネット上のリソースはほとんどが大学系で民間企業はなく、個人のホームページもほとんど無かったと思います。TVや新聞では日本中に大容量の光ファイバーを敷設し終わっており後は各家庭へのラスト1マイルが課題だと言っていました。そしてキラーコンテンツはVOD。後は好きなときに天気予報が見られるとか、キャプテンシステムの延長みたいな話。
ちなみに就職活動の時に面接前に論文(作文?)の課題を出されて、インターネットの将来についてグーテンベルクとか無料の百科事典ができるとかいう話を書いたのを憶えています。検索エンジンとか著作権問題、新聞やTVとネットの競争、本や音楽の電子化など、今大きな流れになっている現象のどれも想像すらしませんでした。キラーコンテンツの代表格だったVODは10年以上たった今でもほとんど普及していません。
その頃に今のインターネットのその更に先のビジョンを持っていたとは、到底信じられません。
できればその当時に「ブログのような日記的なものからOSのソースコードまで、個人の知恵が集まり成立している世界そのものがインターネットであり、その知恵の1つであるCGMの広がりは、インターネットの原理から言って当然の流れ」と語って欲しかったと思います。

「極度の心配性だけが生き残る」という思想

私がそんなふうに歩んできた「知の現場」では、それまで当たり前とされてきた常識が通用しない場合が多かった。学問的に実証された過去の知よりも、行為・行動の当事者によって現場で発想され磨かれた知のほうに、大いなる輝きがあった。

常に大変化が自社(自分)を襲うものだという前提を置け。変化はそれ自身何だかよくわからないもので、しかも何の前触れもなくひたひたと忍び寄る。だからこそ組織(自分)の神経を研ぎ澄ませ、緊張感を漲{みなぎ}らせて生き「変化の予兆」を感得できるようになれ。そして感得した変化の本質を認識し、過去の成功体験は捨て、戦略(生き方)を迅速に大きく変えよ。

方や、2つ目の記事は同じインターネットの振り返っているのに全く正反対のことを言っているように見えます。
「当たり前のこと、常識が通用しない世界。」「極度の心配性だけが生き残る。」「神経を研ぎ澄ませ。」「過去の成功体験は捨て、戦略を大きく変えよ。」
1つ目の記事で「インターネットの原理から言って当然の流れ」と言い切る世界を、2つ目の記事は「常識が通用しない世界」と見ています。

違いの理由

もし1つ目の記事を書いたのが記者や研究者なら何とも思いませんが、どちらの記事もIT業界の第一線で活躍されている方々です。なぜこうも見方、感じ方が異なるのでしょうか。
1つ目の記事は実は過去しか見ていない、もしくは過去にしか興味がないのではないかと思うのです。過去の実績を見て、後付で理屈を考えて「○○なのは□□だから当然」と解説しているだけのような気がします。実際の世の中は理屈通りには動きません。もし何事も理屈通りにことが進むなら、金持ちの学者がもっといても良いはずです。実際には法律すらパワーバランスで決まります

思想の違いは、行動の違いを決定づける

こういう思想や世界観の違いは、決定的な行動の違いを生みます。
1つ目の記事を書かれたのはライブドアの社長室長だそうですが、ライブドアはこの前、サイトのデザインを一新しました。以前はよくYahooの真似と揶揄されていましたが、CGMを重視した結果、ブログページが「はてな」そっくりになりました。CGMを重視した当然の流れなのでしょう。

2つ目の記事の著者、梅田望夫氏が取締役をされている「はてな」の社長、近藤淳也氏は「世の中はでたらめな仕組みで動いている」と言い切っています。たぶん、想像ですが、彼らは「○○は当然の流れ」なんて決して言わないのでは無いのでしょうか。恐らく、流れは自分たちで作るものだと考えているような気がします。だからこそ、「向こうに行っても鳴かず飛ばずで誰からも注目されず、日本の会社もガタガタになって成長が止まってしまう」というリスクを冒してでも、アメリカへ行って新しい道を模索し続けるのだと思います。