Winny裁判に見る文系と理系の越えられない壁

Winny開発者の金子氏に対して有罪判決が言い渡された。
この判決内容やその影響について、いろいろな人がいろいろなことをブログや記事で書いているが、一つ思うのは、裁判長はPCを使ったことがあるのだろうかということ。
PCを使うだけでなく、フリーソフトを使ったりブログを書いたりしたことはあるのだろうか。
asahi.com:「ウィニー」裁判、判決要旨 - 社会

 ●幇助の成否

 ネット上でウィニーなどを利用してやりとりされるファイルのうち、かなりの部分が著作権の対象となり、こうしたファイル共有ソフト著作権を侵害する態様で広く利用されている。

 ウィニー著作権侵害をしても安全なソフトとして取りざたされ、広く利用されていたという現実の利用状況の下、被告は、新しいビジネスモデルが生まれることも期待し、ウィニーが上記のような態様で利用されることを認容しながら、と認められる。

 これらを利用して正犯者が匿名性に優れたファイル共有ソフトであると認識したことを一つの契機とし、公衆送信権侵害の各実行行為に及んだことが認められるのであるから、被告がソフトを公開して不特定多数の者が入手できるよう提供した行為は幇助犯を構成すると評価できる。

この文書を読んで思うのは、裁判長は金子氏に対して得体の知れない恐怖を感じていたのではないか、と言うこと。裁判長には無報酬でプログラムを書き、何の対価も求めずにそれをホームページ上で配布する行為が理解できなかったのではないだろうか。人は理解できないものや行為に対して恐怖を抱く。その恐怖を打ち消すためには自分が納得できる「理屈」を見つけることである。今回の場合は、世の中の秩序を乱し社会を混乱させたいという「愉快犯」という理屈ではなかったのだろうか。
裁判長には金子氏のプログラムの無償公開という行為が理解できなかったがため、行為の目的に著作権侵害という理屈をこじつけるしかなかったように思える。


プログラマーがプログラムを公開するのに理屈など必要ない。
人は何かを作ったとき、理屈抜きで誰かに見せたいと思うものなのだと思う。