なぜ表現の自由が必要なのだろうか

東京都小学校PTA協議会広報委員会は、青少年健全育成条例改正案の成立に関する緊急要望書を提出したそうだ。

漫画やアニメであっても、幼い子どもが自分から性交を求め、快楽を得ているかのようなもの、親子や姉弟・兄妹間の激しい性交が愛情表現の一環であるかのように片付けられているものなど、大人ですら良識のあるものなら目をふさぎたくなるようなもの

青少年健全育成条例改正案の成立に関する緊急要望書を提出 | 社団法人 東京都小学校PTA協議会

こういう漫画やアニメが存在し、年に数十件もの小学生の被害者いる状況は、誰もでも不安を感じるし子を持つ親なら尚更だろう。「改正案が通れば、文化の根を断つことになる」として著名な漫画家などが文化の衰退を理由に今回の改正案に反対している。しかし、自分の子どもが被害者になることと文化を比べたなら、文化の方が大事だと答える親はいないだろう。あらゆる文化が消え去るとしても、自分の子どもが被害者にならないことを望むのが、親としての当然の想いだと思う。

ところで、日本を含む多くの国では政治体制として民主主義を採用している。各国によって制度の違いはあるが、基本的には地域毎に投票によって代表者を選出し、その代表者達によって国のルールを決める方式となっている。さらに新しいルールを決める際にはそれら議員による多数決で決められる。なぜこんな面倒なやり方を多くの国で採用しているのだろう。各地域の代表者であれば、それなりの知識や教養、常識、判断力を備えれているだろうから、意見が分かれることなどあるはずがない。正しいルールは採用し、悪いルールは正せば良い。まるで、いい大人が正しいことか悪いことかの分別がつかないように見える。


結局のところ、人は皆等しくバカではないかと思う。もちろん天才や秀才、賢い人はたくさんいる。しかし、世界の複雑さからすれば、天才と凡人の差は誤差みたいなものではないだろうか。たとえば、3マスの◯×ならどうすれば勝てるか、逆に負けるかを100%理解できる。しかし、将棋やチェスになると、完全には理解できる人は一人もいない。単純なルールの小さなボードゲームでさえ人には理解できないのに、複雑で広大な世界そのものを理解出来るはずがない。それをよく表している言葉が「人間万事塞翁が馬」や「風が吹けば桶屋が儲かる」なんだと思う。人には世界をありのままに理解することはできず、何が正しく、何が正しくないかも判断出来ない。
人には善悪を判断する術(すべ)がないため、多数決では、絶対に最善の方法は決められない。仮に最善の法案があったとしても必ず誰かが反対するだろう。しかし、最悪の方法を選択する可能性も低くできる。仮に最悪の法案があったとしても同じ理由で反対されるだろう。


それでも、代表者達が選択を誤ることはあるだろう。どうすればその誤りを見つけ、その誤りによる被害を最小限に留めることができるのか。我々は過去の教訓から「表現の自由」がその答えであることを学んだはずだった。苦痛に対して悲鳴をあげたり、人間同士で傷つけ合うことを拒否したりといった当たり前のことが、できなかった時代があったと義務教育で習ったと記憶している。心を震わす感動的な歌も、気分の悪くなるようなくだらない猥談も、ユーモア溢れる与太話も、その場を和ます冗談も、そして悲鳴や大切なものを失って嗚咽を漏らすのも同じ口だ。もし誰かにその口を塞ぐ権限を与えたなら、何が起きるかを我々はよく知っている。人に善悪の区別がつけられない以上、あらゆる表現を許容するしかない。もし特定の個人を誹謗中傷するものであれば個別の解決すれば良い。バカで愚かな人間が長い時間と多く失敗と犠牲を払ってようやく手に入れた知恵が「表現の自由」「言論の自由」だったはずだ。

私たちは、親として、このような主張を受け入れ、「児童ポルノは、見るだけならいいのよ」、「強姦や近親相姦も、漫画なら表現の自由だからいいのよ」と子どもに教えることなど決してできません。

青少年健全育成条例改正案の成立に関する緊急要望書を提出 | 社団法人 東京都小学校PTA協議会

まず、子どもに児童ポルノを見せることは児童虐待なのでやってはいけない。だから、そんなことを子どもに教える必要もない。また、表現の自由が嫌ならそういう国へ移住すべきだ。表現の自由は民主主義の基本的条件の一つなので、非民主主義、もしくは自称民主主義の国になるが(色が薄い地域ほど民主傾向が強いので、色の濃い地域は表現の自由がない可能性が高い)。