日本で電子教科書が上手くいかないと考える理由

アップルからiBooks 2やiBooks AuthoriTunes Uがリリーススされたことをきっかけに、電子教科書についての記事がいろいろ上がってきています。しかし、個人的には日本では電子教科書は上手く使えないと思っています。

日本の授業の形式と電子化

自分が学校に通っていたのはかなりむかしなのですが、基本的な授業の形式は、先生が黒板にいろいろ書いて30〜40人の生徒がそれをノートに書き写すというものです。こういう形式の授業に電子教科書を導入してもメリットは見えません。電子教科書よりも各教室にプロジェクターを設置したり、生徒に印刷物を配って説明した方が教師も生徒も効率化できるはずなのに、そうしないのはなぜなのでしょう。黒板とノートを使った授業形式に執着しているように思いますし、そういう執着がある限り、彼らに何を与えても変わらないでしょう。

教科書の内容

電子教科書以前の問題として教科書の内容、その執筆者、教える教師の質の問題があります。よくネットで話題になる問題として掛け算の順序問題があります。たとえば、今の小学校では「シールを9枚買いました。シールは1枚8円です。全部でなん円になりますか?」という問題の計算式は「8x9=72」でなければならず、「9x8=72」と書いたら不正解(もしくは減点)にされるそうです。

今の教科書が正しいと考えている方は上記のサイトを読んでみて下さい。ちなみに欧米圏では日本と逆の式を教えているそうですが、日本の形式を間違いとしているかは分かりません。
また、習っていない漢字をテストに書いたら間違いにされるそうです。

漢字のことで思い出したけど、学校は、まだ習ってない漢字は、知ってても書いたらダメなことになっています(ω)

六年生になっても、自分の名前をテストとか習字で書く時、春名しゅう夜(ω)と、書きますのです(ω)へんなのです(ω)


電子教科書の記事の中で米国と日本の教科書を比べて、米国の教科書は重い、大きい、高価と批判的な書かれ方をされることが多いように感じました。

初等・中等教育の例を挙げよう。各生徒が1人1冊の教科書を持つ日本と違って、米国では生徒の教科書は無償・貸与制度をとっている。教科書はクラスなどの単位で共有するものであり、仕様も5〜7年程度の耐久性があるハードカバーだ。付随する資料も多く、非常に大きくて重い。

しかし、資料が豊富なことは良いことですし、そこに書かれている内容もレベルが高いです。以下、日本の中学3年生相当時に習う「生物の教科書」から抜粋します。

“発電のために化石燃料を使うべきか、原子力か、水力発電にすべきか?”これらの問題を解決するためには、科学的な情報が必要である。ただし、これらの問題のどれ一つとして、科学だけで答えが出せる問題ではない。 我々が生きる社会、職や食料や住居を供給する経済、法や倫理が関わる問題に関して科学者は最終決定者ではなく、“recommendation”ができるだけ。 決定するのは我々、民主主義社会の市民が、投票などを通して、決定するのである。だからこそ、科学とは何か、何ができるのか、そして、何ができないのかを、各自が正しく理解することがかつてなく重要になっているのである。科学者にとって科学とは常に発展していくものであって、不変の真理の発見というようなものではない」 「科学の力を知っている科学者は、またその限界についても知っている。ある絵画が美しいかどうか、テストでカンニングすることは悪いことなのかどうか、あなたが判断する際に科学は何の役にも立たない。仮説は、多くの場合、写真にあるようなチームで活動する研究者によって検証される。

その研究者のチームの写真に写っている男女メンバーの服装は… 白衣、ワイシャツ、ポロシャツ、それからもちろん T-シャツにジーンズ。 これがアメリカの教科書が伝える“研究者の姿”。

人は日常的な出来事に対しても科学的に考えている場合が多いのである。 例えば車が動かなかった場合、ガソリンのせいだろうか、と燃料計に目をやることでこの仮説を検証する。あるいはバッテリーだろうか。(中略)論理的な人間は、このようにして最終的に問題が解決するまで、可能な説明を一つ一つ検証していくのである。  下の写真の研究者を含む、すべての科学者は、研究に対して同じような姿勢で問題解決をしていく。
有用な理論は大多数の科学者によって支持され優勢となるが、どのような理論も絶対的な真理とみなされることはない。 新しい証拠が発見されれば理論は改訂されるか、別のもので置き換えられる。時には、自然に対する新しい見方を受け入れることを科学者が拒むこともあるが、長い目で見れば、どの理論が生き残り、どの理論が廃れるかは証拠によってのみ決まる。

※ツイートから教科書部分のみを抜粋して引用
この内容は米国の義務教育の内容ですが、掛け算を理解していない日本の教育者にも是非読んで欲しい内容です。


ただ、日本の教師のすべてが良くないとは思いません。以下のような記事を読むと日本にも良い先生はちゃんといるんだと実感させてくれます。

あたしが小学5〜6年生だったときの担任・マツダ先生(仮名)は、クラスで話し合うとき生徒にたったひとつのルールを課しました。そのルールとは、「意見を言うときは、必ず理由を言わなければならない」というもの。これは鉄の掟で、例外は許されませんでした。今にして思うとこれはすばらしい教育で、あたしはマツダ先生にものすごく感謝しています。

ただ、このエントリでは「ゆとり教育の見直しで算数だの英語だのの時間を増やすのもいいけど、こういうところにももっと力を入れていく必要があるとあたしは思ってます。」と、まとめていますが、それは限りになく不可能に近いぐらい難しいと思います。なぜなら、このエントリのマツダ先生は一人しかおらず、他の先生はマツダ先生になれないからです。このエントリでは生徒間の話し合いのことしか書かれていませんが、おそらくマツダ先生は日常会話や行動も「理由付き」で行っていたのではないでしょうか。もし先生が生徒にだけ「理由」を強制するような先生であれば、生徒はそれに従わないでしょうし、生徒を指導することもできません。そして、日常の行動を変えて習慣化することは大人にとってはとても難しいので、他の先生は真似することができず、マツダ先生と同じ指導もできません。



日本はOECD諸国中で、授業でのパソコン利用が一番少ないそうです。

OECD諸国の中で、授業でのパソコン利用が最下位の国はどこかご存じだろうか? 日本である。この不名誉を返上するためにも、今回の発表を機に一気に国内で議論が活性化することを期待する。

この記事ではパソコン利用が少ないことを不名誉だと言っていますが、私はそのこと自体が名誉だとも不名誉とも思いません。教育で重要なのはその質と内容であって、どんな道具を使うかは直接関係ありません。たとえば、IT機器を使うことによって、小テストの作成/配布/採点にかかる先生の負担が軽くなり、その分、授業の質を高めることに時間が使えるのであれば効果があると言えるでしょう。しかし、単にPCを使っているから良い教育とは言えません。

教科書の電子化と国際化

今後はインドやフィリピンなどの英語が浸透している国では、欧米圏の英語で書かれた電子教科書を使った授業が広まっていくと予想します。なぜなら、教科書の作成コストはどこの国にとっても高くつくので、レベルの低い高い教科書を自作するよりは、他所の高レベルな教科書を安く買ってきた方がずっと得だからです。あまりバズワードは使いたくないのですが、言語的にも制度的にも「ガラパゴス化」している日本では海外の教科書をそのまま採用するのは難しいでしょう。