お金という名の悪魔

労働は神聖な行為であり、決して無駄になったり損をするような安っぽいものではない。
労働するという行為そのものが、神聖不可分のものであり、掛け替えの無い尊い価値を持つのである。


皆、労働の対価として賃金を貰っているが何の疑問も抱かないのであろうか?
賃金、すなわちお金は本質的に単なる数値にすぎない。
神聖な労働を数値に置き換える行為は、労働に対する冒涜であろう。


繰り返して言うが、お金とは数値である。
そんな数値の大小の為に少なくない数の人々が、これまで人生を狂わせ、人の道を踏み外してきた。
お金こそが正真正銘、この世の諸悪の根源である。


ほとんど全ての人がお金の幻想によって騙されている。
お金が支払われなければ働けないというのは幻想である。
賃金が無くても、賃金があった場合と全く同じように働くことができる。


お金がないと社会が維持できないと考える人がいるが、お金がなくてもそれがあった時と同じように生活することができる。
お金が無い方がお金を管理する手間が省けるため、より効率的になる。


身近な例を使って説明しよう。
もし、家族の間で賃金の支払いが発生したら、どうなるだろう。
ご飯を作った母に皆でご飯代を支払う。
お手伝いをした子供は賃金を受け取る。
仕事から帰った父はお金を払って家でビールを飲む。
非常に面倒である。
これを同じ面倒なことを、社会全体では行っているのである。


解決策は、皆でお金に対する幻想から目を覚まし、本来の人間社会の姿に戻ることである。


まだ、お金に毒されていなかった人類の祖先たちは、それこそ無償で働いていた。
私有物は無く全てが社会の共有財産であり、労働によって得られた収穫物や生産物もまた新たな共有財産に加えられた。
そこには、富める者、貧しい者の区別無く、各々が己の役割をこなしていた。


だが、しかし、私有財産のない、つまりお金がなくても社会を維持できたのは社会の構成員が少なかったからであろう。
たぶん、人類が「お金」を使わずに維持可能な社会はせいぜい数十人程度なのだろう。
この限界を超えて、「平等な社会」を築こうとしても、20世紀の社会主義の様な結果を招くのは必然だろう。
ただ、それでも、「お金」がある限り、人類に永遠に平和は訪れないように思える。



と、いうような事を無機質な数字の並ぶ貯金通帳を見ながら考えた。。。