いずれ消えゆくものと残るもの

最近、オーマイニュースを批判する記事ばかり書いているが、実は期待もしていたりする。それは、オーマイニュースには他のメディアには期待できない2つの優位点があるからだ。
黒崎夜話: いずれ消えゆく人

繰り返すが、ブロガーという職業はない。社会的な存在でもない。
主にプロバイダ等が提供する無料ブログサービスを使って、日々何物かを書くひとたちのことをネット上でそう呼んでいるだけのことである。
アフリェイトの分け前が入ることもあるが、勿論システムを提供するところ等がピンハネしているのであって、無料ブログが広がれば広がるだけ、何処かの誰かが儲かる仕組みになっている。
ブログというのはここ数年急速に広がったネット上の表現のための道具、インフラでしかないのである。

(強調は引用者)
全く同意である。今ブログを書いている人(当然、私も含めて)はやがて50年とか100年の年月によっていなくなり、おそらくブログはもっと短い時間でなくなるだろう。しかし、オーマイニュースの記事はおそらく100年後も残るのではないかと思う。オーマイニュースの記事は市民記者が投稿するがそれが、採用された時点で著作権オーマイニュースと市民記者とで持分均等による共有となる。つまり、記者がいなくても記事は存続できるのだ。この点が無料ブログとは大きく異なる。

私は、今、イザベラバード(Isabella L. Bird)の日本奥地紀行 (平凡社ライブラリー)を読んでいるが、これは、明治維新から10年後の1878年に日本東北地方および北海道を旅行したイギリス人女性の旅行記である。読み終わったらブログで書評を書きたいと思っているが、この本を読んでいると現代人が100年前の日本を旅しているような錯覚を感じる。また、旅日記だから旅をしている人が行くさきざきでブログを書いているようにも思えてくる。そして、当時のありのままの日本人の姿が見えてくる。著者に世界一安全という日本の治安。勤勉。蚤(のみ)とシラミ。地方の極貧生活。たぶんこういったリアリティのある当時の史料というのはほとんど残っていないのだと思う。

今のごく当たり前の日常を記したありふれたブログも今から100年後には貴重な史料になっているかも知れない。この史料としての価値をオーマイニュースは持てるのではないかと考えている。

そして、オーマイニュースに期待しているもう一つの価値は、マスコミが扱わない記事の発掘である。
JANJAN−政治・外交官・米軍誤射説を否定する根拠はない
例えば、日本の外交官2人が2003年11月イラクで殺害された事件について、再度、検証しても良いと思う。私はあの事件の政府見解はとても納得できない、そういった事件の追及は継続していくべきだと思う。
一般的にマスコミの報道はある一部の事件に偏る傾向があると思うので、それをオーマイニュース(やライブドアPJJANJANなど)で補完できたら良いと思う。


<おまけ>
以下、なんとなく思ったこと。今の日本には情報を発信したい人(やネットでコミュニケーションしたい人)が少なからずいて、その内容や目的に合わせて、2ちゃんねるやブログを使い分けているのが現状だと思う。そして、オーマイニュースは単純にそういう情報発信手段が一つ増えるだけじゃないかと思う。だから、「オーマイニュース VS 2ちゃんねる」とか「オーマイニュース VS ブロガー」という対立軸には違和感を感じる。まあ、2ちゃんねるをブログ化することで問題になったこともあるが、それは決して「2ちゃんねる VS ブロガー」というわけではなかった。そういう対立軸は構造上あり得ない。オーマイニュースにも2ちゃんねるやブロガーを「未来のお客様」ぐらいに考えてCS向上に努めてくれれば、状況はだいぶ良くなっていくような気がする。私も何か身近で理不尽な事件(例えば、騒音おばさんとか、ゴミ屋敷とか?)に巻き込まれたら、オーマイニュースに実名記事を投稿するかも知れない。