命の所有者

このニュースを聞いたとき虫も殺せない母が、当然の判決だみたいなことを言っていた。自分にもそういう気持ちはを理解できるが、会ったことも見たこともない人の死を当然と考えることに違和感を感じた。他人の命を判断する資格が自分にあるのだろうか。また、もし人の命の自由にすることができるなら、それは誰なのだろうか。
自分で自分の命を絶つことはできる。しかし、それは自分自身が命を所有していることにはならない。例えば、何らかの方法で銃を手に入れれば容易に他人の命を奪えるが、それが他人の命を所有していることにならないのと同じだ。日本の法律では自殺者を罰することはないが、それは死んでしまった人には罰を与えられないということではないかと思う。ただ、自殺対策基本法という自殺を防ぐ、増やさない法律が最近、できたらしい。また、安楽死は禁止されいて自殺幇助は罰せられる。つまり、自分、他人に関わらず人の命を奪うことは法律で禁止されていると言っていいと思う。と同時に法律は死刑という制度によって、人が人を法律で決められた手順で殺すことを認めてもいる。個人では自分自身を含めて命を自由にすることは認められていないが、国は国が決めたルールで命を自由にしているように見える。それはつまり、国が国民の命を所有しているのと同じことになると思う。
国が国民の命を所有しているなら死刑制度自体に何の問題もないし、「あんなヤツは死刑で当然」とか「何人殺せば死刑なのか」などその国の国民が死刑の基準について議論するのもおかしくない。しかし、同時に外国の死刑の基準にとやかく言うのはおかしいだろう。例えば、チベットで人が何人も殺されているというニュースを聞くが、中国政府や国民が中国のルールで行われているのと言うのであれば、外国人は何も言う資格はない。国民の命はその国が所有しているのだから。
もし、今回の光市事件での死刑判決に対して、外国で死刑反対の抗議デモが起きたら、多くの日本人は「日本国内の事件に外国からとやかく言われる筋合いはない」、「内政干渉だ」と思うのではないだろうか。今の中国人の思いはこれと近いのではないかと思う。日本も中国も殺すべき人を決めるために国民を線引きしている点では同じになる。犯罪者がいなくなれば死刑も行われないという人もいるとだろうが、おそらく中国人も同じ事を言うだろう。

自分はやはり「国が国民の命を所有している」という考え方が間違っているのだと思う。自分自身を含めて、人の命は所有はできない。もし所有できるとすればそれは神か悪魔だろう。人が命の価値を決めようとしたとたん、そこから生まれる矛盾を人は解決できなくなる。だから、自分は日本国内、中国、その他海外を含めて、人が人を殺す行為全てに反対を表明する。