絵画はなぜ高額で取引されるのか

時々、ニュースで有名画家の絵画がオークションで何十億円という金額で落札されたと報道されることがある。たとえば、こういう作品とか。そういうニュースを聞くと、「お金はあるところにはあるんだね」とか、「もっと別のことにお金は使った方がいいのに」とか、考えても仕方のないことを考えさせられる。
しかし、本当にそんな価値がその絵画にあるんだろうか。そこで、ちょっと考え方を変えてみる。たとえば、そういう絵画を大量生産できたらどうなるだろう。100万枚とか1000万枚とか、オリジナルとまったく同じものが作れたとしてもオリジナル1枚と同じ金額で取引されるだろうか。それとも2枚なら半額、4枚なら1/4と値段が下がるのだろうか。100億円の絵画も1000万枚の複製が可能だとしたなら単純計算で1枚あたり1000円になる。逆に、最近大ヒットして世界中で2800万台売れたWiiが、もし世界で1台しかなかったとしたら25000円x2800万台=7000億円の価値を持つのだろうか。
しかし、現実にこんなことはあり得ないことは誰でも知ってる。ドラえもんの秘密道具でもない限り絵画のオリジナルは複製できないし、Wiiのような工業製品は大量生産を前提に設計・開発されている。だから、世界に一つしかない絵画は普通の人が一生かかっても稼げない金額で取引され、大量生産される工業製品は誰もが買える金額で販売される。

IT革命は情報の媒体からの解放

情報という言葉はたぶん最近できたと思うが、人はもちろん動物でさえ昔から情報を使ってきた。群れで活動する動物なら、危険が近づけば鳴き声で仲間に危険という情報を伝える。人が他の動物と違うのは、言語によってより複雑な情報を伝えられること、文字によって個体の外に情報を蓄積できること、だと思う。そしてそれらの言語や文字といった情報技術に支えられて文化・文明を発展させてきた。人類の歴史とは、情報技術の発展の歴史とも言える。
インターネットを極端に単純化すると、誰もがアクセスできて、常に更新され続けている情報が置いてあり、それらの情報が相互につながれいるシステムと言える。デジタル化、コンピュータ、インターネットの3つが組み合わされることによって、このシステムを支えている。デジタル化は文字、音楽、映像の境界をなくし、媒体から情報を切り離すことを可能にした。例えば、レコードは媒体と情報は厳密には切り離せないがCDは情報だけを媒体から取り出すことが可能だ。コンピュータは誰もが情報を扱うことを可能にし、インターネットは情報を「みんな」で共有することを可能にした。これら3つの技術が組み合わされることによって、まったく新しい可能性が開けた。
これまでの情報は「人の記憶」であったり「石碑」や「紙」などの記憶媒体によって情報はその内容とは関係のない制約を受けていた。情報の運搬、情報量、情報の寿命、情報の複製など情報を扱う上でのあらゆる面で情報の内容とは直接関係のない記憶媒体の制限によって、情報は制約を受けていた。
インターネット上の情報も当然、何かの記憶媒体に保存されているが、情報を見ている人からすると何に記憶されているか分からない。どこかのサーバー上のHDDかも知れないし、Googleのキャッシュや、魚拓かもしれない。もしかしたら、ローカルPC上にコピーされた情報かもしれない。そして、情報はその用途によって適切な媒体に移すこともできる。「情報」が記憶媒体と完全に切り離されて、本当の意味での「情報」として扱えるようになった。
本来の情報、つまり記憶媒体による制限を受けない情報には、

  1. いつでもどこでもアクセスできるということ
  2. 個数の概念がない

という特徴がある。
1.はGoogleが目指している世界中の情報を整理するという目標とたぶん同じ。2.は情報にとって、内容が同じであれば情報が複数あっても1つであっても同じことということ。(バックアップは媒体(RAID1とか)に含まれる概念なので除外)

本来の情報は取引できない

個数の概念がないということは、無限に複製できることも意味する。無限に複製できるということは、取引、つまり市場が成立しないということになる。インターネット上のデータは無料で手にはいると言われる。現実の世界でもテレビ放送は無料放送だし、街角ではポケットティッシュを無料で配っている。しかし、それらのサービスは広告としての取引が成立しているために一見、無料に見えているに過ぎない。インターネット上のデータは「取引が成立しない」「値段をつけられない」にも関わらず無料で情報が入手可能になっている。取引が成立しない、市場が成り立たないというインターネットの世界では、取引を前提としたお金(金融)のシステムも通用しない。たとえ、その情報にどんなに価値があったとしても、値段はつけられない。人の創作物で、多くの人にとって価値が認められながら、値段がつかず、誰もがそれを手に入れられる状況というのは、人の歴史の中で初めてではないかと思う。情報が拡散すればするだけ情報の価値が下がるという考え方があるが、下がるのは市場価値だけで、情報の価値そのものは変わらない。

特定の媒体に固定された情報を前提とした著作権法

著作権法は、権利者以外による著作物の複製を制限する法律と言える。パソコンにCDを取り込むと数十MBになる。この程度の容量なら10回でも100回でもコピーできるが、厳格に著作権法を適用するとしたら、コピーはやってはいけないことになるのだろう。私的録音という考え方もあるが、コピーが録音に含まれるかは議論が必要だろうから、複製制限という考え方を厳格に適用するなら、コピーはダメだろう。複製制限という考え方と技術的にコピーを制限できないことが、私的録音録画補償金制度が生まれた背景なんだと思う。権利者の正義は「オリジナルを作れるのは権利者のみ」なのだから、条件付きでオリジナル相当の複製を認める制度は大幅な譲歩と考えているのだろう。こういう考えは、情報が媒体に固定されていることを前提しているために、生まれてくる。
特定の媒体に依存しないインターネット上の情報に著作権法を適用しようとすると多くの矛盾が生まれる。例としてブログが分かりやすいと思うが、このブログも著作物なので著作権法が適用されるはずだ。このデータはブログサービス提供者のサーバに保存されているだろう。サーバー側の配信データはRAID冗長化されているかもしれないし、複数サーバーで分散されているかもしれない。万が一の障害に備えて定期的にバックアップもされているだろう。パソコン(クライアント)から要求があればネットワーク上にデータが流れる。これも一種の複製だろう。もしかしたら、モニタに画像が表示されることも複製と言えるかもしれない。これらの複製行為は厳密には認められないのではないだろうか。
もし現状に著作権法を合わせるならば、情報が複製されることを前提にすべきだろう。そして、複製してはならない条件を例外として規定する。今の著作権法は逆で、原則複製禁止で私的録音録画のような複製可能な条件を例外として規定している。日本ではアメリカにならって、フェアユース制度を導入しようとしているが、それによってどこまで実態に追従できるのか、かなり疑問に思う。やらないよりはやった方が良い、程度に思える。

新技術によるボトルネックの変更

昔、人がまだ採取狩猟で生活していた頃、その生産性を決めていた大きな要素は自然と運だった。人が狩猟のスキルを上げても狩人の数が増えたとしても、天候不順などで獲物の数が少なければ得られるものは限られてしまう。その結果、獲物の数によって生活できる人の数は決まってくる。この時代の生産性のボトルネックは自然だった。

農業技術の導入されると生産性が飛躍的に向上する。適切な土地と技術があれば、それまでとは比較にならないほどの収穫を安定して得られるようになる。農業を始めた当初は未開拓の広大が土地が広がっていて、人口は少なかっただろう。だから、人口が増えれば増えるほど、農業技術が上がれば上がるほど、生産性は上がり続ける。それは、耕作可能な土地が不足するまで続いただろう。この時代のボトルネックは土地だった。

つぎに、工業技術が導入されると、農作物と比べて遙かに高付加価値な商品の大量生産が可能になる。また、天候に左右されないので安定した収入も期待できる。そして、工場を増やし必要な原料を用意すればいくらでも生産量を増やすことができた。再び、人口が増えれば増えるほど生産性が上がる環境が整う。不足する労働人口を補うため、消費者を拡大するために、奴隷を解放して賃金労働者に変えることまで行われる。この時代、つまり今の時代のボトルネックは技術だと思う。

100年前、1000年前と現代とで何が違うかを考えると、人間はあまり変わず、大きく変わっているのは技術のように見える。社会として考えると奴隷という存在の違いが大きいと思うが、奴隷がいた頃も現代も人道主義者という人たちはいて、同じ様な理想を語っている。奴隷制度が廃止されたのはその時代の権力者たちにとって、奴隷制度によるメリットよりもデメリットが大きいと判断されたからだろう。そう判断される基盤になったのは化石エネルギーの活用という新技術だった。

情報が媒体から解放されることによって、媒体というボトルネックが解消される。媒体とはテープやCDだけでなく、有線や電波など情報を記憶したり運んだりするものすべてを指す。媒体というボトルネックがなくなれば、今とは比較にならないほど多くの情報が多くの人たちによって共有されて、さらに新しい情報を生み出していく。この媒体というボトルネックの解消は、農業→工業の変化、産業革命に匹敵する変化を社会にもたらすと思う。

ただ、突然、そういう世界に移行するわけではなく、より価値の高いサービスを提供する企業が道を切り開いていくのだと思う。Yahooがディレクトリ検索でポータルサイトを作り、Googleがロボット検索でその地位を奪っていったように。コンテンツ配信もCDのような媒体複製よりもダウンロードの方がより効率的なのは明らかだったにも関わらず、Appleの参入まで合法的なサービスは普及しなかった。GoogleのCEOが「Googleは将来,デスクトップ事業よりもモバイル事業で多く稼いでいくだろう」と言っているが、人々にとって一番身近な端末になるモバイルの可能性が高いのは多くの人が思っていることだろう。このモバイル市場もiPhoneという新技術で共通プラットフォームを構築したAppleが多くの利益を得る可能性が高いと思う。日本では有料書籍の配信はうまくいっていないが、iPhone向けに販売した同人誌が有料書籍で販売数一位になったらしい。将来、コンテンツを含めて情報は無料になるだろうが、そこに辿り着く道筋は不確定だ。そういう不確定なまだ決まっていない未来に向かって、誰もやったことのないことに挑戦する企業や個人が、未来を作っていくのだろうと思う。

市場価値と本来の価値

今の豊かな社会は高度な分業化によって支えられている。分業化によって多くのモノが社会に供給されているにも関わらず、私たちがそれらの要不要をそれなりに判断できているのは、それらに値段がついているからだと思う。もし、値段がなく各自が必要だと判断した分だけ持ち帰るようなことをすれば、誰かが必要以上に持ち帰って、たちまち品不足になるだろう。お金は複雑化した社会にあって、モノの価値を判断するための便利な情報なんだと思う。
しかし、お金による弊害もある。昔、テレビ番組に出演したゲストに司会者がお礼を述べたことに対して、「お金を支払っているのだからお礼を言うのはおかしい」というクレームを言った人がいたが、こういう非常識な考え方をさせるのはお金の弊害だと思う。こういう例は極端なのかもしれないが、多かれ少なかれお金は道徳やモラルを失わせる原因になっている。
一方、無限に情報の複製が可能なインターネットではお金による取引ができない。お金を払えないから、コミュニケーション(道徳やモラル)に頼るしか方法がない。時々、画像の無断使用で問題になることがある。画像を使う側は、公開されているし何かが減る訳でもないから使って良いと判断したのだろうし、使われた側は自分の知らないところで自分の画像が使われたから文句を言うのだろう。取引やお金が使えない、現実の世界とルールが異なるインターネットではこれからも新しい問題がいろいろ起きると思う。それは決して悪いことではなく、お金という便利な道具で麻痺していた感覚を取り戻す手助けになるような気がする。お金は私たちが長年使い続けてきた価値を測る物さしだが、インターネットの情報はそれが使えない。自分たちの感覚でその価値を測り、どう扱えばいいかを考えなければならない。インターネットはお金やモノに対する人々の価値観を変えていくのだと思う。

補足

今はiTunes Storeの様な音楽ダウンロードサービスがあるが、将来、無料の音楽コンテンツとの競争に負けて、すべて無料化されると思っている。その時、ミュージシャンがどうやって稼いでいるのかは分からない。兼業なのかコンサートなのか、今はない別の何かなのか。個人的には、寄付が主流な方法の一つになっていると思っているが、これには個人的な希望も含まれているかもしれない。

…って思ってへこんでいたら、夏ごろビクターから発売だって!作曲者さんへのお礼は何も出来ないが金が払えるよ。こんな嬉しいことはないので記念に更新!

http://www.yukimasami.com/sketchbook/index.php?id=a267d265e45b303400e00603e78e6641

初音ミク」の3Dアニメを作成できる無料ソフト「MikuMikuDance」が人気だ。その質の高さに「お金を払いたい」というユーザーも続出したが、開発者は「お金ではなく、すばらしい動画を作って見せてほしい」と話す。

「神ツール」――初音ミク踊らせるソフト「MikuMikuDance」大人気 - ITmedia NEWS

コンテンツを商品と考えている権利者の方々には理解できないと思うが、人は有形無形を問わず価値あるモノを貰ったらお礼をしたい衝動に駆られるものらしい。もちろんお礼の宛先はそのコンテンツの権利者ではなく創作者。人の心の動きなので著作権法も関係ない。インターネット上でコンテンツとお金の取引はできないが、一方的な寄付ならできる。