日本で死刑がなくならない理由

日本人の多くが死刑制度を支持

人は殺してはいけない。多くの人にとってこれは自明のことでしょうし、反対する人はいないでしょう。でも、日本は死刑制度があり人を殺すことを法律で認めています。さらに国民の多くがそれを支持しています。

このニュースのソースはこの内閣府調査です。この調査は定期的に行われており極端に高い死刑制度支持の背景にはアンケートの質問の仕方に原因があるというエントリもあります。アンケートの内容が死刑制度支持に誘導している見方もあるとは思いますが、自分個人の感覚としても多くの日本人が死刑制度を支持していると感じています。
なぜ「人を殺してはいけない」と思っている人たちが「人を殺す制度」を支持しているのか、ずっと疑問でした。
「死刑制度を存置(そんち)する理由」として回答が多かったものは次の理由だったそうです。(複数回答)

  1. 「死刑を廃止すれば,被害を受けた人やその家族の気持ちがおさまらない」(53.2%)
  2. 「死刑を廃止すれば,凶悪な犯罪が増える」(51.5%)
  3. 「凶悪な犯罪を犯す人は生かしておくと,また同じような犯罪を犯す危険がある」(41.7%)

いずれの回答も感情的にはよく理解できるものです。しかしこれらが人を殺すに値する正当な理由とは思えません。人が亡くなる理由は病気や事故、災害など様々です。人が亡くなる以上、残された家族の気持ちにおさまりがつかないことに変わりはありません。交通事故だから、手術が失敗したからという理由で亡くなったからといって、残された遺族の気持ちがおさまるとは到底思えず、「加害者」を許せない遺族はたくさんいるでしょう。この死刑と死刑にならない場合の境界線はなんなのでしょうか。

「人を殺してはいけない」社会と死刑制度が両立する理由

その疑問がつぎのエントリを読んで解けました。少なくとも自分の中ではほぼ完全に納得出来ました。

前にも書きましたが、例えば、合衆国憲法草案時に条文の「人間は誰もが幸福を追求する権利がある」といった時に、人間には、黒人は(もちろんアジア人も)入っていませんでした。これは、憲法草案会議で、論争になったので記録にも残っています。彼らにとって、黒人奴隷は家畜なので、人間には入らないだろう?いや、そうもいかないんじゃないか?と、議論になったのです。もちろん。結論は、人間ではない、でした。

当時のアメリカ人にとって、たとえば、日本人は、もちろん人間ではなかったのです。つまり、奴隷にしても、皆殺しにしても、レイプしても、騙しても・・・・・何してもいい、神に愛されていないゴミだったんです。

「人を殺してはいけない」を裏返せば「人でなければ殺してもかまわない」ということになります。上記エントリの合衆国憲法草案では人種で「人」と「人以外」を区別していますが、日本ではその行為、つまり犯罪で「人」と「人以外」を区別しているように見えます。「ひとでなし」(人で無し)という言葉がありますが、文字通り人としてしてはならない行為はした人間は、人間ではないという考え方を反映した言葉だと思います。たとえば、殺人事件と交通事故死はどちらも人が亡くなることに変わりはありませんが、加害者の「人間性」がまったく違います。裁判で加害者の反省の程度が判決に影響することが多いですが、これは裁判官が加害者の「人間性」、つまり「人」か「人以外」かを判断した結果なのだと思います。
結局、「なぜ『人を殺してはいけない』と思っている人たちが『人を殺す制度』を支持しているのか」に対する答えは、「凶悪犯罪を犯すような人は、人ではないから」ということになります。

「ひとでなし」の恐怖

不気味の谷」という考え方(Wikipedia)があります。ロボットやCGで作られた人物の外観を人間に近づけすぎると、余りにも人間にそっくりであるがために返って不気味に見えるという説です。ホラー映画などでより恐怖心を煽るために、人の形をしたモノが人ではあり得ない動きさせることがよくあります。たとえば、四つん這いで高速移動させたり首が360度回転したりとか。凶悪犯罪も普通では考えられない行為であるために、不気味の谷と同じような感情を多く人に感じさせているのではないでしょうか。テレビや新聞などのメディアも過去にさかのぼって調べ上げて、犯罪者の非人間性をことさら強調します。そうすることで多くの人は、彼ら犯罪者が普通じゃない、自分たちは違う人間、つまり「ひとでなし」であることを認識して安心するのではないでしょうか。そして、そういう人の形をした「ひとでなし」が自分たちと同じ社会に生きていたことに恐怖し、その存在を消そうと無意識に考えた結論が「死刑」という制度ではないでしょうか。

彼らもまた私たちと同じ心を持った人間であることに、何の変わりはないのに。