メディアリテラシー

はじめに

メディアリテラシーを考えるー『「CD売上回復!」というストーリーを作りたいレコード会社たち』は悪質な印象操作だ


先月、有名ブログである音楽配信メモを書かれている津田さんが、自作自演記事を掲載しました。
内容は、音楽業界を批判(音楽配信メモ)→音楽配信メモの内容を批判(はてなダイアリーのkeithmenthol氏)→自作自演を公表(音楽配信メモ)という流れです。
今回の動機と目的というのが、上記3つ目の記事に5項目書かれているのですが、直接の動機は1つ目の自分の記事のバランスをとるため、というのが大きい気がする。
それは「●前提」で小寺信良さんが書かれた下記2つの記事を紹介し、わざわざ「熟読してください。」と書いていることからも分かります。

自分としてもここで書かれているようなことで、気になることがいくつかあったので整理しておこうと思います。

村上龍は本当に『かつてすべての小説は「人間が穴に落ちる」「穴からはいあがる/穴の中で死ぬ」という話型でできていると道破した』のか?

村上龍はかつてすべての小説は「人間が穴に落ちる」「穴からはいあがる/穴の中で死ぬ」という話型でできていると道破したことがある。

村上龍はかつてすべての小説は「人間が穴に落ちる」「穴からはいあがる/穴の中で死ぬ」という話型でできていると道破したことがある。


検索キーワードを「村上龍」「穴に落ちる」としてGoogleで検索すると上記2つの記事が上位にリストアップされ、また上記を記事を参照していると思われるブログが多数見つかります。
上記ブログははてなブックマークでも多くのユーザーにブックサークされる有名ブログなので多くのブログから参照されていることは何もおかしくないのですが、引用元が書かれていないことが奇異に感じました。
書き忘れたということもあるでしょうが、なかなか印象に残った一文だった(本を読んだり映画を観ていて主人公がピンチになると、これがフラッシュバックされて面白さが半減するようになってしまいました。)ので、もう少し調べて(キーワードをいろいろ変えて検索)みました。

■世の中には二種類の物語しかない



 見終わってから、私は「なんて救いがない物語だ」と思った。救いが

あることが正しいことだ、などとこれっぽっちも思ってはいない。村上

龍さん風に言えば「穴があって、そこに人が落ちて死ぬ話」という感じ

だ。



 かつて村上龍さんが、米国の脚本家のこんな言葉を教えてくれた。

「世の中に物語の種類は二つしかない。ある男が歩いて来て、穴に落ち

て死ぬ、か、穴から這い上がる話、だ」



 担当者から「いかがでした?」と、電話がかかって来たときに、私は

この映画のコメントを書くことをお断りした。理由を訊ねられたけれど、

うまくは答えられずに申し訳なかった。



「わたしね、どうしてもこの映画の感想は書けないんだ。この映画はね、

私、褒めることができないんだ。もし、感想を書いても批判しちゃうと

思うんだよ。凄く面白い映画だったし、刺激的だったし、映像的にもかっ

こよかった。だけど、だからって、私はこれを褒めることができない。

評価はできるけど、この映画のラストを、私は認めることができないん

だ」



「なぜかっていうとね、こういうことは、つまり、こういう虚無的な人

間は、実はもう、たくさんいるんだ。そこらじゅうにいるんだ。この存

在はそんなに新しくない。そういう時代なんだ。だからこそ、ここに新

しい何か別の視点がないと、私にはやりきれないんだよ。快楽殺人者は

存在する。その事実は認める。でも、それをただ描いただけじゃ、私が

やりきれないんだよ。表現ってのは、そこに新しい光、それが救いでは

ないにしろ、何か別の価値観とか、視点とか、世界観とか、そういうも

のがなかったら、ただ残酷でむなしいだけじゃ、私はやりきれないんだ」



 あまり良い説明だったとは思えない。だけど、そんな風にしか、その

ときの気持ちを説明することができなかった。

(注:強調は引用者による)


Yahooグループというメーリングリストサービスに田口ランディさんのメルマガの記事が残っていて、それが検索に引っかかりました。
このメルマガによると、田口ランディさんが村上龍さんから米国の脚本家の話として例の「穴に落ちる話」を聴いたと書いてあります。
つまり、「世の中には二種類の物語しかない」と道破したのは村上龍さんではなく米国の脚本家か、もしくは他の誰かということになります。
もちろん、村上龍さんが自説を米国の脚本家の話として、田口ランディさんに話したという可能性もありますが、そこまで考えるなら直接、村上龍さんに確認するしか真偽を確認する術はありません。


上記以外に
孤低のつぶやき01/08

これは、田口ランディさんのネット・コラムで引用されていたエピソードの孫引き。村上龍氏がハリウッドの脚本家に会って、次の話を聞いたという。

「世の中に物語の種類はふたつしかない。ある男が歩いて来て、穴に落ちて死ぬ、か、穴から這い上がる話、だ」

こういった記事も見つかりましたが、圧倒的に多いのは、「村上龍さんが言った」とする記事・エントリーです。
ネットの中では、「村上龍さんが言った」こととして「世の中には二種類の物語しかない」が語られています。

「パンが無ければお菓子を食べればいい」

フランス革命で処刑されたフランス国王ルイ16世の王妃、マリー・アントワネットが食糧難で苦しむ民衆について「パンが無ければお菓子を食べればいい」と言ったとされる話は知らない人はいないくらい有名です。
私の場合、世界史の授業で先生から教わったのですが、教科書に書いてあったかは憶えていません。
そのころは今より純粋だったのでそのまま信じていたのですが、「知ってるつもり」というTV番組で事実ではないことを初めて知りました。


ウィキペディア(Wikipedia)ーマリー・アントワネット

しかし、これはアントワネット自身の言葉ではない。ジャン=ジャック・ルソーの『告白』(1766年頃執筆)の第6巻に、ワインを飲むためにパンを探したが見つけられないルソーが、“家臣からの「農民にはパンがありません」との発言に対して「それならブリオッシュを食べればよい」とさる大公婦人が答えた”ことを思い出したとあり、この記事が有力な原典のひとつであるといわれている。新しい愛人が出来た庇護者で愛人でもあったヴァラン夫人とルソーが気まずくなり、マブリ家に家庭教師として出向いていた時代(1740年頃)のことという。

なお近年の研究では、中国の西晋王朝(265年-316年)第2代皇帝恵帝 による「米がないのであれば、肉を食べればいい」という発言の記録がヨーロッパに伝来し、主に反王制派の知識人によって上記の貴族階級の女性たちの発言として脚色されて流布された可能性が高い、という説が有力視されている。

ウィキペディアによるとアントワネット自身の言葉ではないが、出所は諸説あるらしいです。


でも、よく考えてみれば諸説あって当然だと思います。
IT技術が発達した現代でさえ「言った/言わない論争」が絶えないのですから、紙しか媒体のない時代(更に紙は貴重品)に、ある個人が言った言葉が”噂”として伝わっていること、そここと自体を異常だと考えるのが自然だと思います。
そして、この時代はフランス革命の真っ直中であり、主役である民衆の気持ちを統一する必要性があったことと、民衆の敵である王族にはその役に見合う宣伝文句が必要だったことを考えると、民衆(およびその指導者)によるデマと考えるべきでしょう。

人は己が望む情報を信じる

現在のマスメディア主体による世論の形成を考えると、人々が望むまたは一部の人がそうありたいと望む方向に世論が流されているように見えます。
ごく一部の評論家・コラムニストと呼ばれる人の言葉が多数の意思を大きく左右している様に見えるのです。
そして、ネットのメディアにおいてさえも、一部の有名ブロガーの記事を鵜呑みにする傾向が散見され、そのことに対する危機意識から、小寺信良さんや津田さんはああいう記事を書かれたのだと思います。
情報伝達媒体が放送からネット、情報の流れが単一方向から双方向に変わっても、評論家が有名ブロガーに変わっただけで、社会の意思形成の仕組みは何も変わっていないかのように見えます。
(一部の人間のミスリードによって、社会全体が間違った方向に進んでしまうリスクをなくすことができません。)


そういったミスリードによって、戦争であったり虐殺(関東大震災)が起きてしまう。
そういう事件が起きる時には、多くの場合、大衆が飛びつきやすい情報・逸話・デマ(どこそこの強制収容所では虐殺が行われているとか、井戸水に毒を流したとか)が、どこからともなく沸いてきて、民衆は情報通りに動いていく。
異論が出ても多数の声にかき消されてしまう。

「誤解がたくさん集まれば、本当に正しい理解がそこに立ち上がる」

村上 インターネットでウェブサイトをやっていたときは全部読みました。僕がそのとき思ったのは、一つひとつの意見は、あるいはまちがっているかもしれないし、偏見に満ちているかもしれないけど、全部まとまると正しいんだなと。僕が批評家の批評を読まないのはそのせいだと思う。というのは、一人ひとりの読者の意見を千も二千も読んでいるとだいたいわかるんですよね。

村上 そういうことです。だから僕がいつも思うのは、インターネットっていうのは本当に直接民主主義なんです。だからその分危険性はあるけれど、僕らにとってはものすごくありがたい。直接民主主義の中で作品を渡して、それが返ってくる。すごくうれしいです。だからインターネットっていうのは僕向けのものなんですよね。

「誤解がたくさん集まれば、本当に正しい理解がそこに立ち上がる」という言葉はとても大きな可能性を感じるのですが、それには千〜二千の意見に目を通す必要があるようです。
梅田望夫さんは5000以上を読まれたそうです。
「玉石混交から玉のみを見つけ出す技術」というのがありますが、やはり技術には限界があります。
本質的な価値判断には、人間による判断が不可欠です。
技術はそれを手助けしているにすぎません。
「一人ひとりの読者の意見を千も二千も読んでいるとだいたいわかるんですよね。」と平然と語り、多数の誤解の中から正しい理解を得るには、ネットの技術に加えて、その当人の高いスキルが必要なのだと思います。

メディアリテラシー

メディア・リテラシーとは、情報メディアを批判的に読み解いて、必要な情報を引き出し、その真偽を見抜き、活用する能力のこと。「情報を評価・識別する能力」とも言える。ただし「情報を処理する能力」や「情報を発信する能力」をメディア・リテラシーと呼んでいる場合もある。

「でしょ? ということで実験的に導入している学校が世界的にも少しずつ出てきているんだけどね。でもメディアリテラシーで扱う内容は、将来的には国語の授業の枠組みの中に取り込んでいくべきではないかと思うんだよ」


これからは、限られた人達が情報を集め限られたリソースを使って情報を発信していく社会から、誰もが双方向で情報を発信していく社会に徐々に変わっていきます。
各個人は無数の情報から「正しい理解」を得ることを求められるようになるのではないかと思うのです。
上記の2つ目の記事では国語の枠組みと書かれていますが、メディアリテラシーを「必要な情報を引き出し、その真偽を見抜き、活用する能力のこと。」と捉えるならなら全く独立した科目として扱うべきかもしれません。
ネットやPCを使ったり、国語や歴史、科学などの知識は、メディアリテラシーにとって道具や手段にすぎません。
もし、将来、メディアリテラシーという科目が新設されたなら、自分のように津田さんの自作自演にまんまと引っかかった人間は落ちこぼれになるのかもしれませんが。
ただ、メディアリテラシーが義務教育化されることによって社会全体のメディアリテラシー能力が向上すれば、これまで情報操作によって引き起こされたきた様々な不幸を防ぐことができるのかもしれません。

おまけ

・「CD売上回復!」というストーリーを作りたいレコード会社たちを書いて、割といろいろなサイトで取り上げてもらって、反応とか見てたんですけど割とみんな好意的というか、納得、その通りみたいな意見がほとんどだったので、それに対して「結構偏った(意図的に偏らせて書いた)記事なのに、否定的な反応がないなー。ちょっとヤバいんじゃね?」と思ったので、カウンターが必要だと思った(その意味では、元々のエントリーを書いた時点ではこうしたちゃぶ台返し的なことをすることは一切想定していない)。

(注:強調は引用者による)


津田さんの記事で一カ所だけひっかかる箇所がありました。
最初の記事では自作自演の予定はなかったと書いてあるのですが、最初の記事のことを「結構偏った(意図的に偏らせて書いた)記事」とも書かれています。
つまり最初の記事を書いた時には自作自演の意図は無かったが、別の目的のために意図的に偏った記事と書いた、ということになります。
別の目的とは何でしょう?
はてなダイアリーに寄せられたコメントにひとつひとつ丁寧フォローしていることもあって、個人的には今回の「演出」を肯定的に受け止めているのですが、上記の箇所だけが気になりました。
「最初から自作自演を予定していたけど、それを隠そうとしている」というようなことがないことを、望みます。