日本語の未来

広義のコミュニケーション技術(通信や移動技術)の発達により、今では地球の裏側にいる人とリアルタイムで会話したり、地球を一周することも誰にでも可能になった。しかし、ほんの数百年前までは、移動、すなわち旅は命がけだった。例えば、三蔵法師が天竺へ旅する逸話はそれをものがたっていると思う。これらの技術の発達により多くの言語が滅亡の危機に瀕しているが多くの人は、その事実を知らないし知っても気にも止めないだろう。

コミュニケーション技術の発達が非優勢言語を滅ぼす

異なる言語を話す集団同士が接している(コミュニケーションしている)場合、基本的に勢力の弱い言語は消滅してしまう。例えば、日本語とアイヌ語の関係であったり、英語と植民地言語の関係がそれにあたる。また、逆に同じ言語でも2つの集団に分けてコミュニケーションをいっさいなくすと、時間の経過とともに別の言語に分かれていく。例えば、英語とドイツ語がそうである。
しかし、コミュニケーション技術の発達した現代は、多くの言語が失われ、新しい言語がほとんど生まれない環境になってしまっている。英語の例だと、遠くイギリスからアメリカやオーストラリアに分かれたグループは以前であればそれぞれが別の言語へのと変化したはずであったが、距離にかかわらずコミュニケーションが可能なために、変化しない、もしくは3つ地域で同じ様な変化をしている。
また、以前はある言語が他の言語に置き換わる場合、友好的であれ侵略的であれ、地理的に集団と集団が接している必要があったが、今は地理的に接していなくても電波やネットを通じて優勢言語が他の言語に影響を与えることができる。テレビやラジオ、ネットの発達が多くの場合、優勢言語を更に優位にしている。
現在、地球上に約5000語の言語が存在すると言われているが、そのほとんど80%〜90%が2100年までに滅亡するらしい。要はその言語を使う人がいなくなるのである。

日本語の場合を考えてみる

日本は、なかなか英語のレベルが上がらないが、近いうちに英語を苦にしない世代が生まれてくると思う。それは本人にとっても、日本にとっても良いことだと思う。しかし、考えてみて欲しい。自分を含めて同世代の人が英語/日本語の両方が使えるのであれば、どちらの言語を使うのが自分/周りの人にとって良いことなのだろうか。日本人のほとんどが英語/日本語の両方が使えるなら、会社の仕様書/マニュアル/議事録などは、英語/日本語のどちらで書くべきだろうか。仮に英語が不自由なのが「一部の老人」だけという状況なら、ビジネス文書のほとんどは英語で書かれるに違いない。現在でも学術論文は、一部の人しか読めない日本語ではなく、みんなが読める英語で書かれるのが基本となっている。(と聞いたことがある。)
そして、数世代後には英語だけで不自由なく生活できるようになり、日本語は徐々に使われなくなっていくのだと思う。ネットワーク外部性と同じ理屈である。
たぶん、200年後の日本人は、現代の文書や映画を英訳版や英語吹き替え版で見ているような気がする。

参考文献

言語の興亡 (岩波新書)

言語の興亡 (岩波新書)

今回のエントリーはこの前に書いた「図書館の未来」というエントリーをきっかけにして、昔読んだこの本を参考に書きました。
以下は、この本のP.206からの引用です。

今の状況がこのまま変わらないとすれば、現在起きている中断期の最終段階では、最も大きな威信を持った、単一の世界言語が残っているだけの状態となってしまうだろう。そうなるには数百年かかるだろうが、それが我々の向かっている究極の状態なのだ。
だが、事態が変わることを願おう。

ここで「現在起きている中断期」というのは、数百年前から起きている優勢言語による非優勢言語への強い影響のことです。