言葉の力

2ちゃんねるに「小女子焼き殺す」と書き込み小学校の業務を妨害したとして、2008年9月29日に23才の被告に有罪が言い渡されました記事がはてブのホットエントリに上がっていました。
この事件については、最初の報道の時からもやもやしたものを感じていたのですが、はてブのコメントを読んで、それが解消されたのでエントリとして残しておこうと思います。

以下はMSN産経ニュースに掲載されている裁判官の主張です。

西野裁判官は「警察に捕まるか捕まらないかきわどい文章で勝負し、掲示板の反響が見たいという動機は身勝手。魚の意味だと言い逃れできるよう、『小女子(こうなご)』という言葉を選び、犯行は巧妙」と指摘。「学校に謝罪もなく、『小女子』は魚だと不合理な弁解を繰り返し、反省がない」と厳しく非難した。

http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/080929/trl0809291106001-n1.htm

被告が2ちゃんねるに犯罪予告に見える書き込みをしたこと。それが通報され、逮捕されたこと。書き込んだ『小女子』という文言を巡って、限られた人しかなれないはずの裁判官や弁護士が弁論を繰り広げたと考えられること。この一連の経緯はどれも釈然としないものでした。

そして、何気なく記事についたブクマを眺めていると次のコメントが目に飛び込んできました。

言葉の力を軽く考えている人間が多いのには驚く。

はてなブックマーク - y-yoshihideのブックマーク / 2008年9月29日

200件近いブクマがこの記事にはついていたのですが、有罪を疑問視するブクマ・コメントがかなりありました。このコメントは、それらのコメントに対しての感想を述べているようです。
ところで『言葉の力』とは何でしょうか。上記のコメントでは「犯行予告文」が与える影響を意味しているように見えますが、自分にはそれとは違うもっと大事な本来の意味があるような気がして、ググってみました。すると、検索トップに自分が探していた答えが出てきました。さすがGoogle神。
見つけたのは大岡 信さんという詩人の「言葉の力」というエッセイでした。中学校の教科書に載っているそうです。

* 言葉の力 / 大岡 信 *


人はよく美しい言葉、正しい言葉について語る。しかし、私たちが用いる言葉のどれをとってみても、単独にそれだけで美しいと決まっている言葉、正しいと決まっている言葉はない。ある人があるとき発した言葉がどんなに美しかったとしても、別の人がそれを用いたとき同じように美しいとは限らない。それは、言葉というものの本質が、口先だけのもの、語彙だけのものではなくて、それを発している人間全体の世界をいやおうなしに背負ってしまうところにあるからである。人間全体が、ささやかな言葉の一つ一つに反映してしまうからである。 

言葉の力 / 大岡 信

自分が一連の『小女子』事件におけるやり取りの中で感じていた違和感はまさにこれでした。「言葉というものの本質」は「口先だけのもの」、「語彙だけのもの」ではないのに、2ちゃんねるに書き込まれた文言だけを切り離して、吟味され判断が下されていく様は恐怖すら感じます。また、同時に怒りも感じます。それはまさに言葉に対する冒涜に見えるからです。


この短いエッセイの中で著者は、桜色の染料が桜の花の咲く直前の桜の皮から取れるという話から、桜の花びらの美しいピンク色は桜の木全体の活動によって生み出されると考え、次のように結論づけています。

このように見てくれば、これは言葉の世界での出来事と同じことではないかという気がする。言葉の一語一語は桜の花びら一枚一枚だといっていい。一見したところぜんぜん別の色をしているが、しかし、本当は全身でその花びらの色を生み出している大きな幹、それを、その一語一語の花びらが背後に背負っているのである。そういうことを念頭におきながら、言葉というものを考える必要があるのではなかろうか。そういう態度をもって言葉の中で生きていこうとするとき、一語一語のささやかな言葉の、ささやかさそのものの大きな意味が実感されてくるのではなかろうか。美しい言葉、正しい言葉というものも、そのときはじめて私たちの身近なものになるだろう。

『言葉の力』とは文字の意味そのものにあるのではなく、一語一語の言葉の背後にある話者や著者の存在を念頭におきながら考えるとき、実感されるのだと思います。それは、たとえ結果的に同じ文言だったとしても、話す/書く人が変わればその意味も変わります。


匿名掲示板に書き込まれた文字の字面に執着し続けたこの事件は、本来、日本人の模範なるべき人たちが日本語を貶めることに終始したことと同じであり、だからこそ不愉快に感じていたことが今更ながらようやく分かりました。


本当に偶然ですが、このエントリを書いたすぐ後、「言葉の力」を実感させられるエントリを読みました。

i Love yuo Mom DAD Grace

http://ameblo.jp/omisedayori/entry-10385613325.html

6歳で亡くなった少女が家中に残したメモの一文です(引用元のエントリではピンクの紙に鉛筆で家族の絵と共に書かれています)。これは彼女にしか書けない文ですし、彼女以外が書いても同じ意味にはなりません。ちなみにGraceは彼女の4才の妹だそうです。


小女子』事件の頃、まるで何かのブームのように「言葉狩り」が流行りましたが、こういうエピソードを読んだとしても、ひたすら字面だけを追い続ける言葉狩りに何か意味を見出すことができると思うのでしょうか。