「テルーの唄」−盗作とかモラルの話以前にクリエイターとしてのプライドの問題では?

今まで知らなかったが、先日のテルーの唄表記問題に対してスタジオジブリの鈴木プロデューサーからコメントが出されていた。

スタジオジブリ - STUDIO GHIBLI - 「テルーの唄」の歌詞の表記の問題について

今回のことの経緯の説明、思慮が不足していたことと関係者の方へ迷惑をかけたことの謝罪、今後は「こころ」から着想を得たことの表記について第三者にも要請していくという今後の対策説明、そして、本件を指摘した方への感謝のことば。スタジオジブリとしての公式コメントとして、とても良く書けていると思う。今回の対応として"無視"という選択肢も取り得たはずだが、この対応はむしろ立派とさえ思える。

ただ、何かが欠けている気がしてならないのはなぜだろう。
冒頭の記事に映画のパンフレットから引用して「『テルーの唄』の誕生」の状況を説明しているが、「『テルーの唄』の誕生」について書かれている別の記事ではちょっと状況が違っている。それぞれ、引用して比べてみる。
まず、映画パンフレットの方から。

鈴木はすぐさま吾朗監督を呼び、この曲を聴かせました。以心伝心、吾朗監督もそれを聴きながら、テルーのことを思います。聴き終えた後、鈴木は吾朗監督に「ゲド戦記」のテーマソングの作詞を依頼しました。とまどう吾朗監督。そこで鈴木は、「こころ」を暗唱してみせます。そしてなんと、その翌日、「こころ」に着想を得た吾朗監督は「テルーの唄」の詞を完成させたのです。さらに、その10日後には、谷山浩子の曲にのせて手嶌葵の歌う「テルーの唄」がジブリに届けられました。

(強調は引用者)

次に「東宝 映画トピックスーあの歌の主をいよいよお披露目!「ゲド戦記」挿入歌CD発売記念記者会見

その一方で、吾朗くんにもテープを聴かせました。大概いつもは「いいだろう?!」と突きつけるんですけれども、僕がそれを言う前に吾朗くんの方から「いい」と言い出したものですから、「これは早くした方がいい」と思いまして。「早く歌って欲しいから詞を書いてくれ」と吾朗くんに言った訳です。

そしたら、吾朗くんが「詞って一回も書いたことがないです」と言うもので、僕が20歳くらいの時に読んで覚えていた萩原朔太郎の「こころ」を諳んじて、「過去にはいろんな名作があるんだから、それを参考にすればできるんじゃないか」と言ったんです。

吾朗くんという人は、決断が早いし、とにかく仕事が早いので、その翌日か翌々日には詞があがってきました。それを秋吉さんに送りましたら、1週間後か10 日後くらいに「曲ができました」と彼女の声が入った状態で歌が届けられまして。それを聴いて、「これでいこう!」となったんです。

(強調は引用者)

どちらもほとんど同じ内容なのだが、鈴木プロデューサーが吾朗監督に師の作成を依頼するところ、具体的には詩の作成についてアドバイスするところについて、後者の記者会見の方が詳しく書いてある。
パンフレットの方を読むといかにも鈴木プロデューサーが「こころ」を暗唱して吾朗監督に「こころ」を参考に作詞するように誘導するように思えるが、記者会見の記事では「過去にはいろんな名作があるんだから、それを参考にすればできるんじゃないか」と言いあくまでその一例として「こころ」を暗唱しただけで、鈴木プロデューサーが「こころ」とは全く違う詩を期待していたようにも思える。
っていうか「詞って一回も書いたことがないです」と言われた鈴木プロデューサーの心中を思わず察してしまった。更に追い打ちをかけるように、翌日 or 翌々日にできあがった詩がたまたま例としてあげた「こころ」とそっくりだったとしたらどう思っただろう。(勝手な想像ですが、最初のテルーの唄はもっと「こころ」に似ていた可能性もあったと思うし。)

今回、問題となった「作詞:宮崎吾朗」の記載も、鈴木プロデューサーの「親心」なのか、創作者たる吾朗監督の主張によるものなのかは分からない。それがどちらだとしても、指摘を受けているのは詩の作詞者は吾朗監督なのだから、吾朗監督本人が答えるのが自然でしょう。
しかし、ことごとく受け身のこういう話を聞くと、吾朗監督は本当にこの作品を創りたいと思っていたのか疑問に感じてしまう。
歌詞も含めて自信を持って創った映画作品なら、堂々と反論なり主張をして欲しい。
(「詩も書けと言われたから書いただけ」というなら、何も言うことはないが。。。)