日本のどこにでもいる「才能の無駄遣い」

少し前の記事ですが、

595 : 2ch中毒(東京都) :2007/05/31(木) 03:07:00 ID:1d8LcXm/0
職人スレからコピペ

ちょっと見てきた日本のカスタムペイントカーを見た海外フォーラムの簡単訳その2

「この車は素晴らしすぎる!もしこの車を手に入れられないのなら、俺は麻薬を静脈注射するつもりだ…」
「まったく驚きだよ。完全な漫画のキャラじゃないか」
「この病人どもめ!」
「これによって俺の健康が損なわれてしまった。あまりの衝撃に口から泡を吹きっぱなしだ。凄すぎて脳が溶けちまったよ!」
「俺には日本人が俺たちと同じ星の人間だとは思えないよ」
「こんちくしょうめ!どれもこれも高すぎるんだよ。これを買えた奴はBANされちまえ!」
「凄いデカールの数々…。プリングルスドラゴンボールは特にいいね」
「なんて細かく描かれた糞なんだ!メーカーはMSポイントを賞金としたペイントコンテストを開くべきだよ」
「いかれてる。これが日本のレビューで高得点を取った理由なんだな?」
「これは画像をインポートしたの?それとも内部での組み合わせ?」
 →「後者だね。それがこのカスタムカーを印象深くさせている理由のひとつだよ」
「なんてことだ。俺は仮想世界でも再び日本人から車を買うハメになるというのか!」
「これは前作と同じシステムを使ったペイントってことか?だとしたら俺は彼らに拍手喝采を贈らなくてはならない」
「『やらないか』ガイがいるぞ!」
 →「俺は『ペドベアー』のワゴンが欲しい」
「凄いな。このゲームが欲しくなったよ。今まで俺はレースゲームにたいして興味なんて無かったのに」
「奴らは非常に優秀なオタクで、奇妙な技術と有り余る時間LOL(=爆笑)に恵まれているんだよ」

http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/990118.html

こういう記事を読むと、日本人は他の国の人とは何かが違う気がするのですが、何が違うのか、また違いがあるのであればなぜ違うのかが分かりません。ちょっと考えてもよく分からないので、気のせいだと思って、そのことを忘れてしまうことが良くあります。

また、日本にはゲーム機メーカーが多いのも以前から不思議に思っていました。任天堂ソニーセガなどゲーム機本体のメーカーも多いですし、ソフトを開発するサードパーティもたくさんあります。単に技術力だけで考えればアメリカや欧州のメーカーがもっと多くても良い気がします。

日本の良質なユーザー層こそ、日本のゲーム産業の宝である

さあ? あるいはとてつもない日本のゲーム業界 『とてつもない日本』

とてつもない日本のゲームは、とてつもない日本のユーザーと企業の両方が揃って、はじめて実現される。この本を読んで、あらためてその確信を強固にした。ゲームだけではない、日本という国そのものがそうなのだから。

さあ? あるいはとてつもない日本のゲーム業界 『とてつもない日本』

「かさぶた。」さんは、日本のゲーム産業を支えているのは日本の良質のユーザーだと言います。再び、同じ疑問が沸きます。なぜ、日本人だけなのでしょう。

デジモノに埋もれる日々」さんは、優れた作品を投稿する職人さんとネタやツールを提供する企業に加えて、作品を鑑賞する多数の鑑賞者(観戦者)の重要性について着目しています。曰く、観戦者がいなければ、無駄遣いできる才能と技術があってもそれを使う理由(モチベーション)がなくなると。
ニコニコ動画を観たことのある人なら分かると思いますが、良い作品に寄せられるコメントは称賛を惜しみません。作品を褒めるだけでなく自分たちもコメントで作品に「参加」しようとします。また、コメント職人さんはコメント機能を駆使して作品をより盛り上げようとします。昔から日本人は褒めるのが下手と言いますが、ニコニコ動画のコメントを見る限り全くそんな風には思えません。

こういう日本人の特性の原点と思えるようなことが日本奥地紀行 (平凡社ライブラリー)に書かれていたので、少し長いですが、引用してみます。

頭のよい少年が二人いて、甲虫の背中に糸をつけて引き綱にし、紙の荷車をひっぱらせていた。八匹の甲虫が斜面の上を米の荷を引きながら運んでいく。英国であったら、われがちに掴みあう子供たちの間にあって、このような荷物を運んでいる虫の運命がどうなるか、あなたには良くおわかりでしょう。日本では、たくさんの子供たちは、じっと動かず興味深げに虫の働きを見つめている。「触らないでくれ!」などと嘆願する必要もない。たいていの家には竹籠があって、「鋭い音をたてるきりぎりす」を飼っている。子どもたちは、この大声を立てるきりぎりすに餌をやるのを楽しみにしている。街路にあって速く流れる水路は、多くのおもちゃの水車を回している。これがうまく作られた機械のおもちゃを動かす。その中で脱穀機の模型がもっともふつうに見られる。少年たちはこれらの模型を工夫したり、じっと見ながら、大部分の時間を過ごす。それは実に心をひきつけるものがある。
日本奥地紀行 P.313

これは、明治維新が始まってから10年後の1878年に日本を訪れ、たった一人(+日本人通訳1名)で東北、北海道を旅行したイギリス人女性の旅行記です。そこに描かれる日本の子供は、自分より物知りの子供の遊びをじっと観察し学び吸収し、真似をしようとします。水路で見られた多くのおもちゃの水車の作り方もそうやって子供たち同士で受け継いだり、新たに生み出したりしていったものと思われます。
一方、著者は、自国の一般的な子供の姿を次のように書いています。

私は、(日本で)私たちが子どもの遊びといっているものを見たことがない−いろんな衝動にかられてめちゃくちゃに暴れまわり、取っ組みあったり、殴りあったり、転げまわったり、飛びまわったり、蹴ったり、叫んだり、笑ったり、喧嘩をしたりするなど!
日本奥地紀行 P.313

これを読んで、別にどちらの国の子どもの姿がより子どもらしいとか、正しいとかは思いませんが、やはり子どもの時から日本人と外国とで違いがあったのだと思いました。また、200年以上、日本人だけで生活していた時なので、日本人の特徴がよく表れている気がします。
ここで書かれている日本の子どもとニコニコ動画で行われていることには、共通していることが多いように感じます。才能のある人は作品を投稿し鑑賞者はそれを批評する。また、その作品から学び工夫を加えて新たな作品が生まれる。この循環がうまく回るためには優れた投稿者に加えて良質な鑑賞者が欠かせません。どういう訳かこの両方の才能が100年前の日本の子どもに備わっていて代々受け継がれているように思われます。
YouTubeが登場した時は、日本からの投稿は著作権違反のものばかりだという批判がありました。しかし、日本人の特性が身の回りにあるものに工夫を加えて何かを作り出すことだとしたら、アニメやゲームネタが参加者にとってもっとも身近な材料だったのでしょうから、そういった投稿が多くなるのは当然のように思えます。
この新しいものを生み出し、伝え、育んでいくという「遊び」が、私たち日本人の誰もが持っている才能だとしたら、これから何が生まれてくるのか楽しみになります。